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横浜地方裁判所 昭和49年(ワ)587号 判決

原告

遠藤昭雄

原告

遠藤フサ子

右両名訴訟代理人

吉田恵二郎

武真琴

被告

日本赤十字社

右代表者社長

林敬三

被告

服部達太郎

被告

岸野貢

被告

大橋敏克

右被告ら四名訴訟代理人

藤井暹

西川紀男

池田和司

水沼宏

橋本正勝

太田真人

被告日本赤十字社訴訟代理人

饗庭忠男

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二本件分娩事故に至る経緯

1  当事者間に争いがない事実

(一)  請求原因2(一)の事実のうち、原告フサ子の分娩開始の診断及び本件病院入院時刻を除く事実

(二)  同2(二)の事実のうち、昭和四七年一一月五日本件病院産婦人科の常勤医師らが一泊旅行に出かけて不在であつた事実及び本件病院の非常勤嘱託医であつた被告大橋が原告フサ子の分娩介助を担当した事実

(三)  同2(三)の事実のうち、本件児が児頭まで娩出された事実及び被告大橋がその後児の肩胛部が娩出されないため同原告に対し下腹部に力を入れないよう指示した事実

(四)  同2(四)の事実のうち、被告大橋が緊急手術を可能となるよう原告フサ子をストレッチャーで手術室へ搬送し非常待機の山下医師の来院を求めた事実

(五)  同2(五)の事実のうち、本件児が最終的に娩出された事実及び右児が死亡した事実(死産であるか否かの点は除く。)

(六)  被告らの主張1(一)ないし(一四)の事実(原告フサ子の昭和四七年一一月四日までの妊娠経過)

2  〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められ〈る。〉

(一)  原告フサ子は昭和四一年七月一日原告昭雄と結婚し、昭和四二年六月一八日助産婦中口フジの介助により体重三三〇〇グラムの女児(正常児、健在)を無事経膣分娩した。

なお、同原告の家系は糖尿病家系ではない。

(二)  原告フサ子は、昭和四七年春ころ妊娠し、夫である原告昭雄らのすすめで同年七月三日本件病院産婦人科を初めて受診し、妊娠六か月、出産予定日同年一一月一一日体重七一キログラム、子宮底長26.5センチメートル、諸検査の結果異常なし、と診断された。

(三)  同原告は、その後定期的に同科を受診し、同年一〇月二〇日から二七日にかけて軽い妊娠中毒症のため同科で入院治療(軽快退院)を受けたこと及び子宮底長、母体重がやや大きめ(妊娠一〇か月の同年一〇月二三日時点―本件分娩の一三日前―でそれぞれ三六センチメートル、74.5キログラム)であつたこと以外は尿蛋白、尿糖とも常に陰性で異常なく、被告らの主張1(二)ないし(九)のとおりの順調な妊娠経過を辿つていた。

(四)  同原告は、同年一一月四日午前三時三〇分ころ血性水様帯下があり、午前四時〇五分、分娩に備えて本件病院産婦人科へ入院したが陣痛は未だ発来しなかつた。

(五)  同日午前一〇時中川医師が内診したところ、同原告の外子宮口は二指開大となり子宮頸管は短かくなつたが未だ硬く保たれ、児頭は骨盤入口上で浮動しており、児頭を押し上げても羊水流出がないため高位破水と羊水過多症が疑われた。

(六)  同日午後から翌五日にかけては本件病院産婦人科常勤医師、助産婦、看護婦及び看護助手らの年一回の合同旅行日に当つていたため同科では被告大橋を当直医に、産婦人科開業医である山下医師を非常待機医に委嘱して、当直助産婦、看護婦らとともに常勤医師ら不在中の入院患者らの診療及び分娩介助に当らせた。

(七)  一一月四日夕食後当直医の被告大橋が内診したところ、同原告の児心音は左臍棘線上で聴取でき整調、下肢の浮腫なく正常、腹壁は軽度に緊張しているが未だ子宮収縮は認められず、児頭は骨盤入口上で浮動し陣痛は発来していなかつた。

ただし、腹部が著しく膨隆し下腹が突き出た尖腹の状態であつたので羊水過多症、ひいては胎児内臓奇形が疑われた。

(八)  同月五日午前二時三〇分被告大橋が診察したところ、外子宮口は八ないし九センチメートル開大し、粘性を帯びた多量の膣分泌物が排出され、子宮頸管は短かくなり児頭は骨盤入口に固定したものの、外子宮口の開大度に比較して児頭の骨盤内位置は高かつた。

胎胞の形成は著明で流出した羊水は軽度に黄色調を帯び若干混濁がみられ、高位破水が疑われた。

児心音は臍下正中線上で整調(毎五秒間の搏数が各一二、一二、一二)で陣痛は中等度に発来していた。

(九)  同日午前六時五七分被告大橋が診察したところ、自然破水と前羊水の流出が確認された。

(一〇)  同日午前一〇時被告大橋が診察したところ、外子宮口は全開大となり、破水は確実で胎児先進部位(児頭)が骨盤狭部に嵌入し産瘤が強度に形成され、陣痛発作は中等度で四〇秒持続間歇一分の周期であつた。

児心音は臍正中線上で整調(毎五秒間の搏数が各一一、一二、一一)で、大泉門を触知しないため矢状縫合第一斜径にあると思われたが、児頭回旋に異常はなく、産瘤形成が著明で小泉門も触知しなかつた。

右状況からみて陣痛発作時の児頭下降が悪く推定破水時刻の午前七時ころから二時間以上を経過して分娩第二期が遷延気味で微弱陣痛となり胎児切迫仮死となる危険性が考えられたので、同被告は右時点で鉗子分娩術施行の適応範囲が到来したものと診断し、これに備えて原告フサ子の会陰部切開を施行した。

(一一)原告大橋は、同日午前一〇時一〇分同原告に対する鉗子分娩術施行に着手し、まず鉗子左葉、次いで右葉を挿入両葉の接合状態が良好で試験牽引に異常のないことを確認のうえ、水平面より第一斜径にやや傾けて両葉を装着、四回目の牽引施行で骨盤出口部まで児頭を下降させ、同一〇時一八分児頭を娩出させた。

(一二)児頭娩出後の本件児の肩胛以下の娩出の経過は次のとおりであつた。

(1) 児頭娩出後まず二十数年間の助産婦経験を有する加藤スズ(以下助産婦加藤という。)が児頭を両手で固定しながら下方に強く牽引し四度肩胛娩出を試みたが娩出不能であつた。

(2) そこで被告大橋が加藤助産婦に代つて数回にわたり児頭を下方へ強く牽引し肩胛娩出を試みたが娩出不可能であつた。

(3) 被告大橋は、次いで会陰部に更に大きな切開創を加え、後膣壁を後方へ圧排するように右手を可能なかぎり深く挿入し、児肩胛を触知すべく児頭周辺を触知しながら上方へ挿入を試みたが、児肩胛関節部、上肢を触知するに至らず、児頸部からわずかに前在の右肩胛らしきものを触知し得ただけであつた。

(4) このように児頭牽引及び児肩胛関節触知が困難であるのは、母体軟産道及び児肩胛部以下の軟部組織(皮下脂肪)の発達が著明で児頸部から肩胛にかけての部位が子宮頸部等で絞扼された恰好となつていることによるものと推測され、他方また合体症の重複奇形の可能性も考えられたため、被告大橋は、強引に児頭を牽引すると母体に対し子宮破裂・頸管裂創等の重大な危険を招くものと考え、これを差控え、帝王切開分娩術を含め緊急手術に対処すべく非常待機中の山下医師に電話連絡して来院協力方を求め、同医師から三〇分以内に本体病院に到着する旨の返答を得た。

(5) 被告大橋は、その後同日午前一〇時二八分児頭のみが娩出された状況で後発陣痛によつて児の脳循環不全や母体の子宮破裂等が招来されることを防止するため陣痛抑制剤ノブロンC二分の一アンプルを原告フサ子に筋注投与した。

(6) 被告大橋は、山下医師の到着に先立つて、母体の異常大量出血に備えて同原告の血液検査を実施し保存血五本を請求し、更に、緊急手術に備えて本件病院外科の当直医田村医師に麻酔施行を依頼しその承諾を得た。

(7) 被告大橋は、同日午前一一時前ころ同原告をストレッチャーに乗せて緊急事態に対する対応が容易なよう手術室へ搬送した。

このころ、本件児の顔面はチアノーゼが強度となり、ストレッチャー上で児心音の聴取は全く不能となつた。

(8) なお、被告大橋は、母体に危険が生じないよう慎重な配慮をしながら山下医師の到着までの間に何回となく児頭の牽引、及び児肩胛の触知を試みたが児の肩胛以下の娩出は不可能であつた。

(9) 同日午前一一時ころ山下医師が本件病院産婦人科へ到着し直ちに手術室へ入室した。

被告大橋から分娩介助の経過の説明を受けた同医師は、今一度強力に児頭の牽引を試みるよう指示し同被告が同原告に腹圧をかけ同医師が児頭を強力に牽引した結果、同日午前一一時二六分ころ児の肩胛以下の躯幹が娩出された。

(10) 娩出された本件児は成熟児で、外見上の奇形はなく、その身長は五五センチメートル、体重は四六〇〇グラム、児頭周囲は三五センチメートル、胸囲は36.5センチメートル、産瘤陽性一度、チアノーゼが全身に著明、胸部はやや扁平につぶれて変形、児心音聴取不能の真死の状態であつた。

(11) 本件児は児頭のみが娩出されてから既に一時間余、児心音聴取不能となつてから既に三〇分近く経過しており、前記のとおり全身にチアノーゼが著明の真死の状態にあつたが、いわゆる浸軟状態ではなかつたため、被告大橋らは、蘇生への一縷の期待を込めて本件児に対して第二度仮死の場合と同様に体外性心臓マッサージ、人工呼吸等の一連の蘇生術を施したが心音も回復せず遂に蘇生しなかつた。

(12) 本件児の死産原因は、児体重が四六〇〇グラムと巨大であつたうえ、母体の軟産道及び児肩胛以下の軟部組織(皮下脂肪)の発達が非常に著明であつたため、児頭娩出後肩胛以下の躯幹の娩出が阻害され肩胛難産(Shoulder dystoola)となり、頭部娩出の状態で約一時間を経過した結果呼吸循環不全を招来したことによるものと推測された。

三被告らの責任について

1  被告岸野、同大橋らが事前に本件児の大きさの測定を怠り適切な分娩方法の選択を誤まつた過失について

(一)  〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 肩胛難産(肩の娩出困難、上肢帯の難産、肩の嵌合ともいう、以下本症という。)とは、通常の分娩の場合には児頭部分が娩出されれば児肩胛以下の躯幹部分は容易に娩出されるのに対し、頭位分娩で児頭が娩出しながら児肩胛以下が産道内に停滞して娩出が困難となる突発的緊急症例であつて、これが発症すると、高い比率で児に対しては恒久的な神経麻痺、酸素不足による中枢神経障害あるいは死亡等、母体に対しては軟産道裂傷、子宮破裂、大量出血、ショック症状等の重大な危険をもたらす(外国の統計によると母体の死亡及び児の死亡はそれぞれ1.6パーセント及び9.8ないし28.9パーセントに上るという。)重篤な産科合併症の一つで、悪夢のようなものであるといわれている。

(2) 本症の発生頻度は、わが国では症例の報告が少なく統計資料が存しないが、外国の文献によると、全分娩例の0.15ないし0.38パーセントであるといわれている。

(3) 本症の発症は、児全体が大きいうえ児の肩胛以下が著明に発達して児頭より大きい場合に典型的にみられ、他に頻度は少ないが過短臍帯の場合、収縮輪の場合、懸鉤状態の双胎児の場合及び合体症(重複奇形、癒合)の双胎児の場合にもみられる。

(4) 異常に大きい児の肩胛による本症の場合の発生機序は次のとおりである。

(イ) 児の肩胛が母体の骨盤入口部の前後径に一致し、前在肩胛は骨盤恥骨結合上に固定され、後在肩胛は骨盤の岬角の高さに固定停留される。

(ロ) 下部軟産道や外陰部は児頸部に密着し、膣内操作を困難にする。

(ハ) 以上から推測されるように、児頭周囲より胸部を含めて児の肩胛周囲が大きい場合に本症が発症しやすい。

(ニ) 児の体重が増加するにつれて、児頭周囲より児の肩胛周囲が大きくなる比率が高まるため、いわゆる巨大児において本症は発症しやすい。

(5) 本症発症の予知、即ち児の肩胛の娩出の可否についての予測は次のとおりきわめて困難である。

(イ) 児頭の娩出の可否即ち児頭骨盤不均衡(CPD)の存否の診断は内外診の臨床所見、エックス線撮影法、そして現在では超音波断層撮影法(CTスキャン、ただし本装置の普及は大病院においても昭和四九年ころより後であつた。)等により可能である。

(ロ) しかし、児の肩巾の予測は臨床所見からは不可能であるが、現在では超音波断層撮影法の開発の結果右方法によりある程度可能で、肩巾と骨盤径の不均衡を分娩前に診断をつけることが可能となつた。

(ハ) 児の肩巾と骨盤径の不均衡があつても、それが極端な場合以外には児の肩胛が内旋し肩巾が縮少し軟産道が伸展するため経腟分娩は可能であるが、肩巾の縮少率及び軟産道の伸展率を分娩前に予測することは不可能である。

(ニ) 前記のとおり胸周囲を含めた児の肩胛周囲が児頭周囲より大きい場合本症が発症しやいすいが、児の肩胛周囲を分娩前に正確に予測する方法は現在においても確立されていない。

(ホ) 前記のとおり児体重が大きくなるほど児の肩胛周囲が児頭周囲を上回る比率が高まるが、児の体重を分娩前に正確に予測することは不可能である。

分娩前に児の体重を予測する方法として予宮底長、母体の腹囲及び母体重の測定(子宮底長が分娩直前で四〇センチメートル、周産期で三五ないし四〇センチあれば一応要注意とされる。)、エックス線撮影法、更に現在では超音波断層撮影法等があるものの、子宮底長、母体の腹囲及び体重は羊水の量の多少や非妊娠時の母体の肥満度に大きく左右されるものであるし、エックス線撮影法、超音波断層撮影法とて児のおおよその大きさを知る程度の手助けになるものでしかない。

(6) 巨大児の発生の原因としては、分娩予定日の徒過(在胎日数超過、ただしこれを過熟児として巨大児の範疇から除外する考え方も有力であるが、分娩に困難を来たす虞れのある、客観的に大型の児という意味で巨大児に含めて差支えない。)及び母体の糖尿病、過食等が有力視されている。

(7) 巨大児の分娩方法としては、

(イ) 頭位の場合児頭骨盤不均衡が存しないかぎり経膣自然分娩が最も通常用いられしかも適切なものであり、鉗子分娩術の適応・要約(必要条件)が存する場合はこれによることも適切である。

(ロ) ただし、いずれの経腟分娩術による場合でも、経腟分娩に困難が生じた時にはいつでも帝王切開分娩術に移行しうる準備を整えておくことが必要である。

(ハ) 帝王切開分娩術施行の比率は通常児の場合より若干高い程度である。

(8) 妊娠中の母体に対するエックス線撮影は胎児エックス線被曝の悪影響からみて、無差別的にこれを施行すべきではなく、狭骨盤、児頭骨盤不均衡、周産期における胎勢異常、異常な巨大児等が予測される場合及び分娩予定日を過ぎても児頭が骨盤内に固定せず浮動している場合に限定されるべきものである。

(9) 鉗子分娩術施行の適応等

(イ) 適応としては

① 微弱陣痛、児頭回旋異常及び胎勢異常等で分娩が遷延し軟産道の圧迫がある場合

② 分娩第二期(子宮口全開から胎児娩出完了まで)が遷延して児頭が二時間以上同一位置にとどまり下降しない場合

③ 母体に疾患があつて母体に負担をかけないため急速遂娩が必要な場合

④ 児切迫仮死の徴候が出現した場合

(ロ) 要約(必要条件)としては

① 児の生存

② 子宮口が全開大に近いこと

③ 極端な児頭骨盤不均衡、軟産道強靱等が存しないこと

④ 破水していること

⑤ 児頭が鉗子適位(中低位)にあること

(ハ) 予後としては

① 母体側に子宮穿孔、頸管裂創及び第三度会陰裂創等が生ずる虞れがあること

② 児側に頭蓋骨骨折、頭蓋内損傷及び神経麻痺等が生ずる虞れがあること

が、それぞれあげられる。

(10) 帝王切開分娩術施行の適応等

(イ) 適応としては

① 児頭骨盤不均衡の場合

② 前置胎盤の場合

③ 子宮破裂の場合

④ 軟産道強靱、微弱陣痛の場合

⑤ 胎位、胎勢異常(骨盤位、横位等)の場合

(ロ) 要約(必要条件)としては

① 児の生存

② 母体に感染症が存在しないこと

③ 母体が手術に堪えうること

(ハ) 予後としては

① 母体側に麻酔事故、大量出血、手術創からの感染症、腹壁創の開、イレウス(腸閉塞症)、瘻孔、手術創の腹壁癒着、○ママ胝形成、不正性器出血、エンドメトリオージス(子宮内膜症)、再妊娠時の子宮破裂及び反復帝王切開分娩術施行を余儀なくされることがあること

② 児側に帝王切開分娩児徴候群と称される呼吸障害、臍帯脱落や生下時体重への復帰遅延等がみられることが、それぞれあげられる。

(二) ところで、前記二2認定のとおり、本件原告フサ子の妊娠及び分娩の経過については、

(1) 同原告の腹部は本件分娩前日の昭和四七年一一月四日時点で著しく膨隆していたほか、分娩の一三日前の同年一〇月二三日時点で子宮底長は三六センチメートル、母体体重は74.5キログラムとやや大きめであつた。

(2) 同原告は身長が一四九センチメートルと短躯であつたのにかかわらず、未だ本件妊娠による著明な子宮底長と体重の増加が認められない筈の妊娠六か月めの同年七月三日の本件病院産婦人科における初診時に既に26.5センチメートルの子宮底長と七一キログラムの体重を記録していた。

(3) 同原告は昭和四二年六月一八日助産婦中口フジの介助により体重三三〇〇グラムの大型の女児(正常児、健在)を無事経膣自然分娩しており、狭骨盤の異常は考えられず、むしろ骨盤の大きい体型の女性であつた。

(4) 同原告は糖尿病の家系に属しておらず、妊娠中の尿糖、尿蛋白検査結果は常に陰性で正常であつた。

(5) 同原告の出産予定日は同年一一月一一日で本件分娩は右予定日より六日前であつた。

(6) 本件児の児頭は同年一一月四日までは骨盤入口上で浮動していたが、翌五日午前二時三〇分には骨盤入口部に固定し、同午前一〇時には骨盤狭部に嵌入しその後鉗子分娩術により児頭は娩出されており、児頭骨盤不均衡は存在しなかつた。

以上の事実が認められる。

(三) 右(一)の肩胛難産に関する医学上の知見、とりわけ、本症発症の頻度が0.15ないし0.38パーセントと極めて低いこと、本件分娩事故当時エックス線撮影法により児頭骨盤不均衡は予知できたものの未だ超音波断層撮影法の普及はなく児の肩巾の予測したがつて児の肩巾骨盤不均衡の予知は困難であつたこと、児の肩巾と骨盤径の不均衡があつてもそれが極端なものでないかぎり肩胛の内旋縮少と軟産道の伸展により経膣分娩が可能となるが、右肩胛縮小率及び軟産道進展率は現在でも分娩前に予知し得ないこと、胸周囲を含めた児の肩胛周囲を分娩前に正確に予測する方法は現在でも確立されていないこと、分娩前に児体重を予測する方法としては子宮底長・母体腹囲・母体重の測定、エックス線撮影法及び更に現在では超音波断層撮影法等があるが、いずれもごく大まかに児が大きめか否かを予測する程度を出ないこと、児が巨大児となる原因としては在胎期間超過及び母体糖尿病の存在が有力視されていること、巨大児の分娩方法も児頭骨盤不均衡が存しないかぎり経膣分娩法によるのが通常で帝王切開分娩術施行の比率も通常児の場合より若干高い程度であること、加えて、鉗子分娩術及び帝王切開分娩術にはそれぞれ適応と要約がありまたその予後も一長一短で安易な帝王切開分娩術の施行は母児双方にとつてマイナスな面があること、妊婦に対するエックス線撮影は胎児被曝の悪影響からみて狭骨盤、児頭骨盤不均衡、極端な巨大児等が予測されたり分娩予定日を徒過してもなお児頭が骨盤に固定しない場合等に限定すべきだとする考え方が有力であること、等と右(二)の本件原告フサ子の妊娠・分娩の経過、とりわけ、同原告の周産期における母体重、子宮底長等から考えて若干大きめの児の存在が予測されたものの元来同原告の母体が肥満であつたため極端な巨大児の存在は予想されなかつたこと、同原告は過去に体重三三〇〇グラムの大型の女児の経膣分娩の経験を有し狭骨盤の危険性はなかつたこと、また同原告には糖尿病の疑いは全くなく分娩予定日は同年一一月一一日で本件分娩はその六日前であつて巨大児となる要因が顕著ではなかつたこと、等を考え合せると、被告岸野、同大橋に対し同原告の本件分娩に先立つて巨大児分娩更には肩胛難産発症を慮つてエックス線撮影等を施行し本件児の大きさを正確に予測して最初から帝王切開分娩術を選択すべき注意義務があつたとすることは、本件分娩当時の通常の臨床医学の水準に立つてこれを考えると、不可能を強いるに近いものであつて妥当ではなく、被告岸野、同大橋に前記注意義務懈怠があつたということはできない。

2  被告岸野が被告大橋に原告フサ子の分娩介助を委ねその際適切な引継を怠つた過失について

(一)  原告らは被告岸野が自ら原告フサ子の分娩介助に当るべき注意義務を負つていたのにこれを被告大橋に委ねた点に注意義務の懈怠ありと主張するのでこの点につき検討する。

思うに、分娩介助の場合には、通常の外科手術等の場合とは異なり、分娩という行為の性質上医師の側で分娩時期を任意に設定できないものであるため、複数の医師が在勤し常時分娩予定の多数の妊婦が在院している産婦人科医療機関においては、特定の医師の分娩介助を受けることにつき妊婦と医療機関もしくは当該医師との間で格別の合意が存するとか、妊婦の妊娠中の経過状況からみて三胎以上の異常な多胎妊娠或いは娩出に格別の困難を来たすべき分娩異常が予め相当程度の蓋然性をもつて予見されるとかの場合を除いては、分娩に先立つて診察に当つた特定の医師において当該分娩介助に当るべき注意義務があるとはいい難く、一定の技倆を有する産婦人科医師がこれに当たれば足りるものと解すべきである。

これを本件についてみるに、後記(二)認定のとおり本件原告フサ子の妊娠経過は少くとも昭和四七年一一月四日午前一〇時の本件病院産婦人科における診察時点までは概ね順調で三胎以上の異常な多胎妊娠や格別の分娩異常が相当程度の蓋然性をもつて予見されたとはいい難く、また、被告大橋の技倆に格別欠けるところがあつたと認めるに足りる証拠はないのであるから、原告らの前記主張は失当である。

なお、後記のとおり被告大橋には原告フサ子の分娩介助につき何ら注意義務の懈怠が存することが認められなかつたのであるから、被告岸野が同大橋に同原告の分娩介助を委ねたことと本件事故の発生との間に因果関係がなく、右の点からも原告らの前記主張は失当である。

(二)  原告らは被告岸野が同大橋に原告フサ子の分娩介助を委ねるにつき妊娠経過等につき十分な引継をなすべき注意義務を負つていたのにこれを懈怠した旨主張するのでこの点につき検討する。

前記二2認定のとおり原告フサ子の妊娠の経過は昭和四七年一一月四日本件病院産婦人科に入院し同日午前一〇時診察を受けた時点までは若干子宮底長及び母体体重が大きかつた(これが格別の分娩障害因子となり分娩方法として帝王切開分娩術を採用しなければならないものであつたとする事由たり得ないことは前記1に認定説示したとおりである。)こと及び軽度の妊娠中毒症のため妊娠中同科に入院したことを除けばほぼ正常の妊娠経過をたどつていたのであるから同原告に関する詳細な診療録等の存することが認められる本件においては、それ以上に口頭もしくは書面で当直医に引継を要する特記事項ないし注意事項が存したことを認めるに足りず、原告らの前記主張は失当である。

3  被告大橋が原告フサ子の分娩介助に当るに先立つて被告岸野から引継を受けず事前の診察等を怠つた過失について

(一)  原告らは被告大橋が原告フサ子の分娩介助に当るに先立つて被告岸野から引継を受けるべき注意義務を懈怠した旨主張するが、前記2(二)認定のとおり同原告の妊娠経過はほぼ正常でしかもこれにつき詳細な診療録が存したのであるから、当直医としてそれ以上に口頭もしくは書面で引継を受けるべき注意義務が存したことを認めるに足りず、原告らの前記主張は失当である。

(二)  原告らは被告大橋が原告フサ子の分娩介助を担当するに先立つて同原告を自ら診察し診療録(カルテ)等を検討すべき注意義務を懈怠した旨主張するが、本件全証拠によるも同被告が右事前の診察及び診療録(カルテ)の検討を怠つた事実を認めるに足らず、かえつて、〈証拠〉によると、同被告は同原告の分娩介助を担当するに先立つて同原告の診療録(カルテ)を閲覧のうえ同日夜及び翌五日午前二時三〇分、六時五七分及び一〇時ころ同原告を診察している事実が認められるのであるから、原告らの前記主張は失当である。

4  被告大橋が本件児の牽引に際し原告フサ子に十分な会陰切開創を与えず強力に牽引しなかつた過失について

(一) 原告らは、被告大橋が原告フサ子に肩胛娩出術を施すに際し同原告の会陰部に十分大きな切開創を与えるべき注意義務を負つていたのにこれを懈怠した旨主張するが、同被告が右注意義務を懈怠した事実を認めるに足りる証拠はなく、かえつて前記二2認定のとおり同被告は同原告に対する鉗子分娩術施行に先立つて同原告の会陰部に側切開を施し更にその後児頭娩出後肩胛の娩出が困難となつた時点で更に大きな側切開を施しているのであるから原告らの前記主張は失当である。

(二)  原告らは被告大橋は原告フサ子に肩胛娩出術を施すに当り児頭の娩出後急速かつ確実に牽引をなすべき注意義務を負つていたのにこれを懈怠し双胎や合体症を疑うあまり児頭の牽引を逡巡し児の娩出を一時間半近く遷延させた旨主張するので、この点につき検討する。

(1) 〈証拠〉を総合すると、一部は先にみたとおりであるが、

(イ) 本症は、通常の分娩の場合には児頭部分が娩出されれば児肩胛以下の躯幹部分は容易に娩出されるのに対し、頭位分娩で児頭が娩出しながら児肩胛以下が産道内に停滞して娩出が困難となり、一旦これが発生すると高い比率で母児の死亡等重大な危険をもたらす、発症頻度が0.15ないし0.38パーセントの極めて稀な、しかし重篤で予知の困難な突発的緊急症例である。

(ロ) 本症の発症は、最も典型的には児全体が大きいうえ児肩胛以下が著明に発達して児頭より大きい場合にみられ、他に頻度は少ないが懸鉤状態の双胎児の場合及び合体症(重複奇形)の双胎児の場合にもみられる。

(ハ) 懸鉤状態の双胎児及び合体症の双胎児の場合はもとよりのこと異常に大きい肩胛による本症の場合でも徒らに強く腹圧を加えたり強引に児頭を牽引することは母体の予宮破裂、子宮頸管裂創等の重大な障害をもたらす危険性が高い。

(ニ) 本症に対する処置としては、一般法としてより大きな会陰側切開の施行、子宮底及び恥骨上縁部の圧迫と児頭の牽引、特殊法として恥骨結合上縁の圧迫と同時に行なう用手的後在肩胛娩出法、古典的肩胛回旋法、後在上肢屈曲内転法、前在肩胛圧迫法等があるが、特殊法といわれるものはいずれも術者の手指を膣内に挿入し肩胛部を触知し回旋又は牽引する方法であつて手指が肩胛に十分到達しなければ施行不可能なものである。

ところが、典型的な巨大な肩胛による本症の場合には、前在肩胛は骨盤の恥骨結合上に、後在肩胛は骨盤の岬角の高さにそれぞれ固定され、児の頸部は母体の軟産道(膣壁、外陰)に密着紋扼され、膣内操作が極めて困難となる。

(ホ) 本症において児頭のみが娩出されて数分を経過すると母体産道により絞扼された児頭部において呼吸循環不全が起き児は死亡する。

(ヘ) 本症において児が死亡したときは児の筋緊張が低下しまた胸腔内圧が減少するほか、児の神経等の損傷を厭う必要がなくなるため娩出が容易になることが多い。

以上の事実が認められ〈る。〉

(2)  右認定の本症の発生機序、対処方法等に関する医学上の知見に照らして考えると、前記二2(一二)認定のとおり被告大橋が鉗子分娩術により児頭を娩出させた後経験豊かな加藤助産婦がまず四度児頭の牽引を試み次いで同被告がこれに代つて数回にわたり児頭の牽引を施行しいずれも奏功しなかつたので、更に原告フサ子の会陰部により大きな切開創を与え膣壁を後方へ圧排するように右手を深く挿入し児肩胛関節部及び上肢の触知を試みこれも奏功しなかつたため、児肩胛軟部組織及び母体軟産道の発達もしくは胎児合体症(重複奇形)による本症の可能性を配慮して強引な児頭の牽引は母体に対し子宮破裂、頸管裂創等の重大な危険をもたらす虞れがあるものと考え児頭の強引な牽引を差控え、母体の安全を優先することとし緊急手術に備えて非常待機の山下医師の来援を求め同原告の血液検査、保存血の発注、手術室への搬送等右緊急手術の準備をなした措置は、いずれも本件分娩当時の通常の産婦人科医師としての臨床医療の水準からみて相当であり、これをもつて注意義務の懈怠があつたものとすることはできない。

5  被告大橋が経鼻カテーテルによる児への酸素供給を怠つた過失について

原告らは、被告大橋が児頭娩出後経鼻カテーテルにより本件児に酸素を供給すべき注意義務を負つていたのにこれを懈怠した旨主張するのでこの点につき検討するに、なるほど同被告が本件児に対し経鼻カテーテルにより酸素供給をしなかつた事実は当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば児頭のみ娩出し児肩胛以下の娩出が困難な場合には児の無酸素症を防止するためできうるなら経鼻カテーテルを挿入し児に酸素を供給すべきであるとされているが、被告岸野、同大橋各本人尋問の結果によると、本件児の場合現実には児頸部から胸部にかけては母体の産道で紋扼圧迫、胸廓が圧潰されていて呼吸及び経鼻カテーテルの挿入による酸素供給は到底不可能であつた事実が認められるので、前記原告らの主張は失当である。

6  以上のとおり被告岸野、同大橋には原告ら主張のいずれの過失も認められず、結局本件分娩事故は肩胛難産という突発的不可抗力的な緊急事態に遭遇したために惹起されたものというほかはないのであるから、被告岸野、同大橋の不法行為責任はもちろん、被告日赤の被告岸野、同大橋の使用者としての民法七一五条一項所定の責任及び被告服部の被告岸野、同大橋についての被告日赤の代監督者としての同条二項所定の責任もまた生ずるに由ないものといわざるを得ない。

四右のとおり被告らにはいずれも原告フサ子の本件分娩事故につき何らの責任を認められないのであるから、その余の点につき判断するまでもなく原告らの被告らに対する本訴請求はいずれも理由がなくこれを棄却すべきである。

よつて、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(浅香恒久 佐藤嘉彦 太田剛彦)

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